体の不調
―「朝食拒否」の生物学
学生や果ては児童までの昨今の体の不調の訴えを,三木氏は「睡眠・覚醒の不全」という肉体の生理条件にその因を求めようとする。 「眠り」と「目覚め」が健康的でなくなる理由として,ひとつは「位相のずれ」,もう一つは「振幅の衰え」があると,ここではいわれている。前者は「夜更かしの朝寝坊」となり,後者は哺乳類の「冬眠現象」にその典型を見る。
これらは突き詰めれば体壁,内臓両者のいわば全身の筋組織の「覚醒不全」,寝覚めの悪さに由来するという。原因は,肉体的・精神的疲労といった単純な因果関係だけで成立するものではないと氏は指摘する。そしてそれを生命誕生以来引き継ぐ「体質」に求めようとする。すなわち,太陽系の諸天体と目に見えぬ絆で結ばれた肉体に宿る,それは根源的な性質であることを考慮しなければ,この不調を解き明かし,解決の道を探すことはできないのだというように。 「位相のずれ」は,形質遺伝および自己家畜化という考えから,「振幅の衰え」は「冬眠説」によって考察される。
次に,不調が自覚される時期として思春期の開始と歩調を合わせることが指摘され,思春期は植物,動物の「食の相」「性の相」の転換点にあたり,その相違点は,人間の場合,「性の相」において特に制限のあること,すなわち「性の抑圧」が特徴的であることがいわれている。ここに,野生の動植物にはない,人間だけが無意識の深層に背負う十字架の存在を氏は我々の前に取り出して見せ,「不調」に由来する心身の諸問題は,ここから,はじめて大きく浮かび上がってくるものと指摘される。
言ってみれば,人間はその動物的な部分では,他の動植物のようにその体内に宿る性のメカニズムに従って自由に生殖行動をとるように仕組まれているにもかかわらず,それが否定される存在でもある。そこに絶対的な矛盾があり,無意識のうちに日常生活を営む上での負い目として,自ら抱え込むことになっていると言うことなのだろう。ここに,「不調」をもたらす根源的な理由を考えることができる。
人間には「不調」があり,その対策も昔からあった。ことわざや,社会のシステムの中にもそれはうかがい知ることができる。しかし,大事なことは考えられた対策がいつまでも誰に対しても有効であるとは限らないと言うことである。例えば1時間を45分とする小学校の基準は児童の生理を元に考えられた対策の一例であるが,この対策がある児童の「不調」を誘引する場合のあることをしっかり認識しなければならないと思う。
三木氏は肉体生理的な生の「リズム」,その波形の認識が,本質的であり,不調対策のすべてに優先すべきであると述べている。その上で適切な打拍効果,いわゆる対策を講ずべきであるという。
最後に,三木氏は児童の「朝食拒否」や「登校の拒否」について,「統計的な何の資料もない」としながら,だがやはり,現代のひとつの風潮としての戦後の心理学的な考察から導かれた対策を批判し,人類発生の悠久の歳月が込められた個々の生理を抜きに考えることが不可能であること,宗族発生などの拡大された視野の中で考察されねばならないことなどが語られている。
ぼくは三木氏のこのような提唱が,全く正しいと判断できるような立場にはない。だが,昨今の教育を取り巻く問題を論じる中に感じられる一本調子な見方,その精神論や生理論のバラバラな意見に飽き足らないもの,胡散臭いものを感じてきた。もっと言えば,これらの問題をだしに,金や地位や名声や活躍の場を得ようとして,目先の商売に走っているとしか思えないような意見が散乱していて腹が立つ思いだった。特に教育に携わるものの間の中にある古くさい教条に縛られた,単純な,苦悩(自分というもの)のない意見を見聞きするとき,絶望的な思いに駆られた。それが,現在の情況を招き寄せた一因であるという内省が,かけらもない。その中で三木氏の意見は,ぼくの中でひとつの光明となっている。
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